鮮やかな憂鬱





 彼がどのような形の望みを抱いていて、その本懐を遂げる日がいつになるのかはまったく分からないが、僕は己の持ちうるすべてを尽くして彼に協力することを誓っている。なぜなら彼の血肉は僕にとって極上のグルメであり、最高にドルチェなあの味わいをもう一度味わいたくてたまらないと僕の身体の全細胞が飢えているからだ。
 カネキケンという喰種に執着をするのに、きっとそれ以上の理由は他に必要ではないだろう。行き場をなくした彼のためにコンテナ風のマンションの一室を借り、とうぶんの生活に困らないような食事の工面をして、時には彼のトレーニングに付き合いともに汗を流す。彼の身体を構成しているいくつかの要素に僕の手が加わっている、――ただそれを思うだけで僕は身震いするほどの高揚を覚えるのだ。

 僕らが『アジト』と呼んでいるその場所には、だいたい彼以外に数人の喰種たちが集まり屯している。齢も性別も様々な個性豊かな面々ではあるが、とりわけてリトル・レディ――――ヒナミ嬢はさしずめ、うすぼんやりと影を落とすアジトという枯れた大地に、一輪だけ咲き続ける大輪の花のように可憐な存在であると感じていた。
 紅一点である彼女に不便をさせないよう最大限取り計らってはいたが、彼女くらいの年齢となると僕らに相談できないような悩みを抱える年頃だろう。そんな彼女のために、僕らではカバーできない問題を解決するのに、少なくとも女性の存在が必要不可欠だと僕は思う。
 この状況にふさわしい女性が一人だけ思い浮かぶ。月山家とも親交がある由緒正しい家の家柄の者で、くしくも僕と同じ大学のキャンパスで勉学を共にする友人である、と言う名の女性だ。僕はなにか困り事が起こる前に彼女をアジトに呼び寄せて、ヒナミ嬢に便宜をはかるよう頼み込むことにしたのだ。


「突然きみにこんなお願いをして申し訳ないね。しばらくの間、彼女の世話をよろしく頼むよ。」
「大丈夫ですよ。ヒナミちゃんはとても良い子ですね。辛い境遇に遭っているはずなのに元気で、いつも笑顔で。」
「ああ、そうさ。花のようなレディだよ。だからこそ、あの笑顔を曇らせたくないんだ。」


 引き受けてくれたお礼に食事でもご馳走しようと誘ったけれど、は謙遜をして僕の申し出を断った。いささか残念でもある、僕は久しぶりにとテーブルに向かいあい、互いの家のことを語ったり、大学の授業について討論をしたり、そういう他愛のない時間を過ごしたいと思っていたから。
 は僕に遠慮をしているふしが多々見受けられる。家同士の関係があるからこそ、月山家の嫡男である僕に頼みごとをされたら断れないと引け目を感じているところがあるのだろう。まったくそんなことを気兼ねする必要などないのに。僕はとは、友人としてフェアな関係性を保って居たいと望んでいるのだ。
 いわゆる幼馴染のような僕らはもっと深く理解し合えると思っているのだけれど――――単純にそうもいかないしがらみがもどかしい。







 僕がアジトへ向かう日にはかならずも来ている。カネキ君やバンジョイ君なんかは、僕が紹介する女性というだけで始めこそのことをずいぶんと警戒していたようだけれど、数日が過ぎた今となっては僕よりも彼女のことをウェルカムだと歓迎しているように思えなくもない。弟のいるは幼子の世話を焼くのが上手だし、ヒナミ嬢もにずいぶんと懐いているようだ。アジトへ行けばソファに座り、カネキ君やヒナミ嬢と談笑をしているのすがたがすっかり此処に馴染んでいるのを見れば、僕のほうが嬉しい心地になったりもするのだ。
 ただ、なぜ彼らはその笑顔を僕に向けてくれないのだと、すこし――――いやだいぶ羨ましく思いもするが。


 月の隠れている今夜は、作戦のその日だった。
 夜戦と呼ぶにはあまりに静かで、美しくない血の流れる戦いだ。勝利を手にし己の正義を果たすのに手段を選ぶ必要はない。僕たちの道を邪魔する者を成敗するのに、正悪やなにかの価値観を当てはめることなど出来はしないのだ。
 夜深い頃に行われたそれを遂行するのにあたり、アジトで眠っているヒナミ嬢を守りあやすために、アジトの守り人として待っていてくれという無茶な願いにも、は嫌な顔をせず引き受けてくれた。それは万が一ヒナミ嬢が目を覚ましたときに孤独を感じることがないように、また何者かが襲ってきたときに対応できるようにと、の力を信じての頼みごとだった。

 作戦は難なく遂行され、僕に任されたタスクが終わり、あとは後片付けをするだけとなった。先に戻っていてくれと言うカネキ君のたってのお願いに――――きっと、僕らのアジトが心配だからと僕にすべてを委ねてくれたに違いない――――僕は二つ返事で承諾をして道を急ぐ。だとすれば僕はその信頼に応えねばなるまい。カネキ君の血肉のために、僕は手足となって戦うと約束をしているのだから。
 赫子の発動による興奮状態が止まず、笑みが抑えられない。深く呼吸をしてようやく整えて、アジトの扉を開けば、寝静まっているらしい静かな空間の真ん中に、人の気配があった。ソファに丸まって眠っているのはだ。ヒナミ嬢を寝かしつけたあと、僕らの帰りを待っているあいだにきっと寝てしまったのだろう。
 近寄って覗き込めばは黒ぶちの眼鏡をかけたまま、身体を痛くしそうなポーズで眠っている。両足を折り曲げてソファに横になり、背中を丸めて収まっているすがたは子猫のようでもあった。邪魔そうにしているずれた眼鏡を外してやろうと、しゃがみこんでその蔓に手を伸ばせば、途端には跳ねるようにして目覚めたのだ。


「あ……、月山さん。」
「Sorry、起こしてしまったかい。眼鏡を外してあげようと思ったんだ。」


 は普段、眼鏡をしていないところを見る限り、いつもコンタクトレンズを着用しているのだろう。女性にぶしつけに触れるなど禁忌であると分かってはいたが、寝起きの無防備なまなざしを向けるのことがどうしても放っておけず、僕はもう一度その眼鏡に手を伸ばしてそっと取り外した。指がわずかに頬に触れたとき、はびくりとその肩を揺らし、――忽ちくちびるを閉ざして固まってしまった。


「……傷をつけてしまったかな。すまないね。戦いのあとで、力の加減ができないんだ。」
「いえ……大丈夫です。ありがとうございます。」


 嗚呼、なんてよそよそしい返事だろうか。眼鏡というフィルターを無くしたの瞳はぼんやりしていて、よく見えないのか、いつも以上にじっと僕の顔を見つめている。応えるようにして覗き込めば、かえってその距離に驚いては肩をすくめた。……僕を避けて通るようなそういう反応には、いつも気を揉んでいるのだ。もっと自然にしてくれて構わないのに。僕はそんな不満を飲みこんで、僕はつとめてにこやかに笑って見せる。


「リトル・レディはどうしているかな。ちゃんと眠っているかい?」
「はい。きっと……気づいているんだと思いますけど、なにも言わずに休んでくれました。」
「それは良かった。きみももう休んで構わない。僕でよければ、家まで送るよ。」


 マンションと言えど部屋数の多い建物ではない。僕には部屋を割り当てられなかったし、――と言うのも普段の僕の優雅で高貴な暮らし方をかんがみて、此処では不釣り合いだとカネキ君が判断してくれたに他ならないが、すでに3人以上の喰種が住まう此処には、ゲストルームなどを用意できるほどの余裕がないのだ。
 目を擦り時計を見上げ、時間を確認したはゆっくりと瞬きをして、明るくなってから自分の脚で帰ると告げた。朝が来るまではあと4,5時間ほどもかかるだろう。それまでこのような狭いソファで眠るつもりなのだろうか。


「無茶を言って呼びだした落とし前だと思ってくれて構わないよ。それに、きみにはまだ、ちゃんと礼をしていないからね。」


 ――もっとも月山家の運転手のことを信用できないと言うのなら、話は別だが。
 なんて、寝起きでぼうっとしているにこのように問いかけるのは、すこし意地悪だったかもしれない。慌てて首を振ったは、ソファの上にうずくまったまま「お願いします」と頭を下げた。立ち上がって伸びをしたの、ラフな部屋着すがたを目にして、僕の心臓は一度ドクリと大きな音を立てた。
 普段とは異なる無防備さに、見てはいけない一面を見ているような罪悪感を感じたのだ。眼鏡をかけ直す仕草も、乱れた髪を整えるそのワンシーンも、こんな風に薄暗い隠れ家で見るからこそ、特別に異彩を放って見えるというか。……戦いのあとで高揚している僕には目の毒だ。
 振り切るように背を向けてアジトを後にする。すぐ傍に待たせてあった車にを乗せて、その隣に乗りこめば、が緊張しているのか背筋をぴんと伸ばしていて、それを見て思わず笑ってしまった。


「家に着くまで眠っていて構わないよ。そうかしこまる必要はない。」
「はい……だけど、せっかく送って頂いているので。」
「きみは真面目だな。家のことはたしかに大事だけれど、――もうすこしくらい、打ち解けてくれても良いと思うんだが。」


 僕のことばに理解を示さず聞きかえしたは、眠気が飛んでいるとは言えすこしぼんやりとした瞳をこちらに向けて、うまく言えないと言った様子で声を詰まらせている。


「僕らは幼馴染だし、大学まで同じで、こうして僕のプライベートにまで深く絡んでいる。家のことを差し置いても僕らは、友人と言うのにふさわしい関係性を築いているとは思わないかい?」
「……ああ、あの。それは、すごく嬉しいんですけど……、」
「ほら、それもナンセンスだ。きみは友人にいつも敬語を使うのかな。」


 は口ごもって、くちびるを噛み、うらめしそうな目をして僕を見やった。そういう表情はようやく打ち解けてきたそれに見える。ちょうどカネキ君やヒナミ嬢に見せる、フレンドリーで壁を感じさせない笑顔のように。
 僕は期待を込めてじっとを覗きこんだ。ジリジリと見つめ合っているうちに、ついに背もたれに身体を預けたは、ようやく根負けしてくれた様子だった。困ったような顔をして、砕けた口調で「もう」と呟く。これが素の声、素の表情、本来の――だろうか。


「月山さんはずるいです。」
「ずるい? どうして。」
「別にわたしは、家のために月山さんのお願いを聞いていたわけじゃありません。」


 また敬語に戻ってしまったが、の喋り口調は前ほど凝り固まったものではなくなった。宵闇にぽつりと落とされる軽やかなその声を、ひとつも聞きのがすまいと、僕はすこしだけ距離を詰めてみる。
 覗き込めばはやっぱり恨めしそうな目をして、困ったようにすぐ視線を逸らしてしまうのだ。


「……わたしを家の者として見ているのは、月山さんのほうですよ。」


 車が赤信号で停車をしたとき、ビルの影になっていた月明かりがようやく降り注いで僕ととのあいだを照り示した。
 は面白いことを言う。僕は普段からとの距離間をじれったく思い、壁があるならば打開したいと画策していたというのに、それすらも僕の思いこみであったと言うつもりだろうか。合点が行かずに訝しんでの顔を見つめれば、いやに潤んだ瞳にわずかに面喰ってしまった。


「だって、一度もわたしに声を掛けてくれたことがなかったじゃないですか。わたしは今までずっと……月山さんのお役に立ちたいと思っていたのに。」
「ああ……そうかもしれないね。だけどそれは、きみが僕に対してあまりに萎縮しているようだったから。」
「それは……。だって月山さんは、わたしには興味がないんだと思っていて。」


 両の手をぎゅうと握りしめてはくちびるを尖らせる。どうしてそんな風に拗ねた顔をするのだろう? ……話の脈絡がうまく読み取れず、僕はいささか困惑してしまう。
 に興味がなかったわけではない。むしろその逆だ。のほうこそ僕に対して、『月山家の嫡男』以上の興味を持ち合わせてくれていないのではなかったのか。だからこそ僕は今の今までのことを遠くから見ているばかりだったし、――それでも意識のどこかにのすがたを思い描いていたから、今回のような僕自身のプライベートに踏み入るような特別なことに、も関わってほしいと望んだんじゃないか。


、きみは……僕のことをどう思っている?」
「……そんなことを聞かないでください。」
「なぜだ、教えてくれ。じゃなければ分からないだろう?」
「今は、空気の読めない人だと思っていますよ。」


 Oups……急に辛辣だ。余計に分からなくなってしまうじゃないか。
 は冷たくそう言い放つなり、途端にそっぽを向いてしまった。暗がりの道路ばかりに目をやって隣にいる僕には見向きもしてくれない。まったくよく分からない、気まぐれなレディだ。結局、僕のことをどう思っているのか深淵の部分は未必のままになってしまった。
 家の令嬢として品行方正に生きてきたのかと思えば、案外と悪態をつくような天邪鬼なところがあったりする。もう十数年も前からの知り合いだというのに、僕はそんなことも知らなかったのだ。もきっと同じようなことを思っているのだろうと思えば、互いの距離感すらもどかしく、歯がゆいものに感じられてくる。


「……では、これからは、僕のことも名前で呼んでくれないだろうか。」
「昔のように、習様とですか。」
「違うよ、習でいい。さあ、呼んでくれ。これも互いの距離を縮めるためだよ。」


 困惑した顔をしながらも僕に応えるためには口を開いた。「習さん」と一度たどたどしく発音をして、満足いかない僕の様子に気がついて、小さな小さな声で「習」と、ついに呼んでくれたのだ。にっこりと笑みを返せば再び困ったように眉尻を下げて、うつむいてしまった。またよく分からない反応だ。だけどなぜだか、その顔をもっと見ていたいような気がするのだ。
 僕たちはきっと互いを知らなすぎるのだろう。友人と呼ぶにはあまりに近く、幼馴染と呼ぶには遠すぎて、興味を傾け合うのもなんだか恥じ入ってしまうほどの距離にいる。
 たとえば今から新しいスタートを切るとしても、手遅れではないだろうかという不安がある。僕が名前を呼べば振り返ってくれる、穏やかで優しく、ときに辛辣で冷たい視線で僕の声に耳を傾けてくれる、そういうきみの色々な顔がもっと見たいと思うのだけれど、きみはどれくらい応えてくれるのだろう。


「tres bien. すごく良いよ。僕のことをそう呼ぶ女性は、世界にきみ一人だけだ。」
「ああ、だから……。そんなことを言わないでください!」


 僕の一挙一動に振り回されるきみも、なかなか新鮮で可愛らしいと思うんだよ。どうかもっと僕の名を呼んではくれないだろうか。家のしがらみもなく、いち幼馴染というフェアな関係として――――僕らはもっと深く理解し合えるはずなのだから。




(150915) きみとダンスを踊りたい



inserted by FC2 system