ギムナジウムデイズ





 なにか代償がなければ愛せないとでも言われている気分だった。痛みや苦しみが生きていることを浮き彫りにさせるから、かたちのないそれを強く確かめたいときに彼にとってベストな手段が「死を感じること」だというのだから、マゾヒスティックで狂気的なその思考には身震いさえする。
 わたしが知っているのはニコラスは可愛く愛らしいもの、小さく柔らかいものが好きだということ。紙一重の脆さに庇護欲をそそられ惹かれるのか、彼は自分よりはるかに弱いものを慈しむのが好きだ。それらを愛するときニコラスはとても優しい顔をする。その手で撫でて生きている感触をたしかめるとき、彼はどこまでも安堵しているような穏やかな目で笑う。
 自分もその対象にしてほしいと望んだのはいつのことだったか、もう忘れてしまった。この街へ来て便利屋をやっていたウォリックとニコラスと出会って、ビジネスとプライベートを分けない付き合いをしているうちに、わたしは気づけばニコラスに心惹かれていたのだ。
 自身をないがしろにするような、クレイジーな闘い方をするくせに、子どもや動物を愛でているアンバランスなところが珍しかったのかもしれない。見ていてほっとけない、なんて大人ぶったことを思ったわけではない。ただわたしは、自分のことを愛してほしいと思っただけだ。庇護するだけの子どもとしてではなくて、隣に立って共に闘う、そういう存在として見てほしかっただけ。


 黄昏種という業を背負いながらもC/2級で、たいした力を持たないわたしを拾ってくれたのは、エルガストルムで小さなギルドを仕切っているマフィアだった。ウエストゲートから十歳になる頃に連れてこられて、初めこそ慣れない階級社会に揉まれ、女だからと弱者扱いされて不当を強いられることもあったけれど、二十歳を過ぎればわたしにもそれなりに居場所が生まれていた。
 わたしの幸運はボスが優しかったことだ。諜報と偵察をさせるスパイを養成するという目的でわたしを雇ってくれたのに、実の娘のように愛情を持って育ててくれた。黄昏種の代償として味覚のないわたしを気遣って、いつも栄養の摂りやすいゼリーやドリンク剤を用意してくれたし、誕生日には毎年きれいなドレスをプレゼントしてくれたのだ。
 決して裕福な組織ではなかったけれど、心優しいボスを慕う部下が何人もいた。わたしが人間不信にならずに済んだのはこういう環境で過ごすことが出来たからに違いない。エルガストルムの治安は悪いけれど、かならずボスや組織を守ると誓いを立てて、毎日を過ごすこと、生きていくことを、受け入れることができたから。

 大事な人を守るために戦っている。そういう覚悟を持って生きてゆくことは、悪くないと思う。わたしは自分のそれが幸運だったと分かってはいるけれど、黄昏種はその力ゆえに命を粗末にする人も少なくないのだ。ニコラスがいつか、雨露のように消えてしまうのではないかと、わたしは怯えている。







「ニコラス、また無茶をしてるって聞いたわ。あなた、いつか死んじゃうわよ。」


 仕事の協力を頼んでいたウォリックを訪ねれば、便利屋の事務所にいたのはニコラスだけだった。一人でじっとしているなんて珍しい。そういう皮肉を込めて指摘をしても、ニコラスはすました顔をしてなにも答えない。
 よく見れば胸に包帯を巻いている。またオーバードーズをして暴れて、テオ医師に怒られて自宅謹慎を命じられたばかりなのかもしれない。


「ウォリックは?」


 煙草を吸うジェスチャーをして、煙草を買いに行っていることを教えてくれた。
 わたしはニコラスの座るソファの隣に座って、彼が読んでいる新聞を同じように覗き込む。ニコラスはぴくりともせずに黙っている。ついちらりと視線を上向けて顔を見やれば、するどい視線が落ちてきて同時に額を指ではじかれた。
 痛い! ……じんじんと走る痛みに、思わず悲鳴を上げる。


「痛いわ! 穴が開いたらどうしてくれるの。」
「…………。」
「わたしの可愛い顔に傷がついたって、ボスが怒るわよ。」


 ニコラスは馬鹿にするようなニュアンスで笑った。ああ、またわたしの言葉をきちんと取り成してくれない。今までに何度こうしてくちびるを噛んだことか分からない。
 ニヤニヤと笑っているニコラスを突っぱねて、ソファに背を預ける。……時間があまりなくて、わたしは焦っている。次の仕事は、近頃エルガストルムを騒がしている薬物の転売ルートを探ることだ。危険がとなり合わせなのはいつものことだし、自分たちのシマを守るためにも、ボスの側近としてわたしが身体を張らなくちゃいけない。今回はすこしでも早く解決するために便利屋の協力を仰いだのだ。


。」
「……なあに、ニコラス。」


 ――今回の件、厄介。自衛、しろ。しっかり。
 あまり手話の分からないわたしにニコラスは端的に手振りをしてくれる。読み取れたのはそのくらいのワードだった。危なくて厄介なのはいつものことなのに、そうやって注意立てをするくらいなのだから、きっとよっぽどマズイことが絡んでいるのだろう。
 ボスを早く安心させてあげたいし、これ以上の被害を増やしたくない。そういう気持ちがさらに空回ってしまうと分かっているのに、わたしはいつも要領が悪くて、こうやって心配をかけてしまうのだ。


「分かってる。大丈夫よ、わたしは落ち着いてるわ。」


 もっとニコラスやほかの黄昏種のように、頼もしく戦えたら良かった、とはいつも思うけれど。もしもわたしが他の黄昏種のように力を持っていれば、自分ひとりの力でもボスや組織を守るって大手を振って言えたのに。
 結局のところわたしは甘えているのだ。大人になったつもりでいたけれど、傍から見たらきっとそうではない。だけどそれらを振り切って、自分ばかりで突っ走ろうとしてしまうから。
 わたしがくちびるを尖らせたのを見てニコラスはもう一度、わたしの額を指ではじいた。痛い、今度こそ本当に穴が開いてしまいそうだ。涙目になりながら、ニコラスの腕を押しのける。びくともしなかったその腕はおもむろにわたしの背に回って、後頭部を強く抱き寄せた。
 ニコラスの胸、――包帯を巻いた身体にわたしの頬が押し当てられる。後ろ頭をぽんぽんと撫でながら、ニコラスはまたわたしの名を呼んだ。


「死、ぬ、な。」


 ぶかっこうな発音は、耳元を優しくかすめていく。慈しむような声色に、温かい手の平にやっぱり涙腺がゆるんで、泣くまいと必死に奥歯を噛みしめた。
 ニコラスは自分よりはるかに弱いものを慈しむのが好きだ。それらを愛するときにとても優しい顔をする。その手で撫でて生きている感触をたしかめるとき、彼はどこまでも安堵しているような穏やかな目で笑う。わたしは自分もその対象として見て欲しかったのだ。大人のふりをする自分を愛してほしいと、子どものようなわだかまりをずっと持て余していた。


「俺、も、手伝、う。」
「……だめよ。ニコラスは無茶をするもの。」
「…………。」
「あなたも、死んじゃだめなのよ。ねえ、分かってる?」


 あなたが死んだら、悲しむ人間が此処にいるんだから。
 仕方がないと言った様子で肩を持ち上げて笑うのは、やっぱりわたしを子ども扱いして、宥めるためにそうしているように見えた。本当はそれでもいい。こうして抱きしめて撫でてくれるのなら、なんだっていいのだ。
 わたしはニコラスのタグを引っ張ってその首元に抱きついた。ニコラスは目を離せばいつか居なくなってしまいそうだと思う。けむりのように命を落としてすがたを失くして、なんの足跡も残さずに居なくなってしまいそう。

 自分の生命を、生きているということをなによりも実感させてくれるのが、痛みや死であるかぎり、ニコラスはずっと自分の身体をないがしろにするのだと思う。誰よりも温かい手の平で撫でてくれる、誰よりも柔らかく笑ってくれる、なによりも弱者を慈しんでくれる優しいニコラスのことを、わたしは愛している。首元に顔をうずめれば背中にニコラスの手が回った。子どもをあやすようにゆっくりと撫でる、その温度がたまらなく愛おしくって、どうしようもなく寂しくなった。
 窓の外には雨が降っている。きっともうすぐウォリックが戻ってくるから、早くこの腕を離さなきゃいけないのに。


 ――好きよ、ニコラス、大好き。


 このままずっと抱きしめて、離さないでいて。こっそりとそう呟けば、聞こえているはずはないのに、わたしを抱きしめるニコラスの腕の力が強くなった気がした。




(150910) ここまでしてるのにきみは鈍感だね



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