ひびの隙間に花ひとつ





「おぬしもそろそろ家族を作るべきではないか、ダリューン。」


 そもそも何の話をしていたのかをよく思いだせないが、殿下がそのように切り出したことで話題が百八十度転換をした。
 来月に執り行われる式典の段取りと国賓の選出について、殿下の意見を仰ごうと書類を持って訪ねたのがはじまりだった。式典では騎士たちの忠誠心を高めるための計らいがいくつも成されていて、その試みの一つとして見せ試合を予定しているのだ。数人の騎士を選出して班分けをしてその勝敗を競い、その評者に国外からの来賓を招くことを計画している。近々に執り行わなければならない手続きや決定事項が多く、俺はここ数日のあいだその会議や伝令などを含めたあらゆるものに追われている。
 それだと言うのに当のパルス国王殿はこういってはなんだが呑気な顔をして、筆を走らせていた手を止めて俺にそんな話を振ってみせるのだ。正直、どのような脈絡があったのか理解しあぐねて、「はあ」と情けない受け答えをしてしまった。俺の聞き間違いではなかったかとわずかに不安に思ったのだ。


「もう所帯を持っていてもおかしくない年齢だろう。恋人は居ないのか?」
「……恋人は居りません。殿下、俺が結婚を……ですか。」
「そうだ。なにかおかしなことがあるだろうか? 私はダリューンの子どもを見てみたいぞ。きっとおぬしにそっくりで、剣の腕が立つ騎士に育つのだろうな!」


 にこにこと笑顔で俺とその子どもの未来を想像していらっしゃる殿下は、ついにはその筆を机に置いて腕組みをしてつらつらと想像をお話してくださる。
 アルスラーン殿下御身に忠誠を誓ってからと言うもの、殿下のこと以外には、日々の訓練や騎士たちの統率、そして戦での勝利についてのみ考え生きてきた俺にとって、結婚はおろか恋人のことをよくよく考えることをしては来なかった。もっともギーヴや叔父には日頃からそれを批判されることは多かったがたいして耳を傾ずにいたのだ。それがついに殿下直々の仰せとなると、さすがに我が身に振りかかる話題として受け止めざるを得ないであろう。
 殿下は俺の子どもが見たいと――そうおっしゃっている。殿下のお望みならばなんでも叶えて差し上げたいところだが、今すぐにとは行かぬその願いに、俺はたじろぐ他はなかった。


「そもそも、ダリューンがどのような女性を愛するのかすこし興味があるぞ。好きな人なども居ないのか。」
「はあ……特に居りません。殿下、私に結婚などというのはいささか、縁遠い話に思います。」
「面白いことを言うなあ。私にはいつも縁談を勧めているくせに。」


 殿下はくすくすと笑い、おかしそうに腹を抱えた。それを言われてしまったら、返す言葉も無くなるというものだ。禁じ手を使われて俺は口をつぐむ。
 殿下は手をつけていた書類にサインを書き終えて、一纏めにしながらじっと俺の顔を覗き込んだ。


「てっきりダリューンは、のことを好いているのだと思っていた。」


 ……というのは、このパルス王宮で占星学を専門としている学者のことだ。数年前に東洋の小さな島国から遊学に来ていたのを、殿下が招致して王宮付の占い師として雇いこんだ。おとなしそうな見た目に反してよく喋りよく笑う。気性は穏やかだが、危なっかしくて見ていられないような頼りなさが、殿下の幼い頃のことを思いださせるようで、俺はよく気にかけていたのだ。
 ただそれだけの理由なのだが、どうやら殿下の目には俺がを好いているように映っていたようだ。それにはまだ二十そこらで年若く、殿下のお若い頃にすがたを重ねて面倒を見ているぶん、恋慕などを抱くのはまったく憚られるところなのだが。


「いえ……さすがに彼女は若すぎます。私はもう三十を越えておりますし……。」
「そんなことはないぞ。私の見立てでは、もおぬしのことを気に入っている。なかなかお似合いだと思っていたのだ。」
「……そうでしょうか。」


 だから積極的にアプローチをしてみろ、と――アルスラーン殿下は俺の背中を押して下さった。
 そもそも俺はのことを好いているなどと一言も言っていないのだが、殿下はすっかり俺の恋路を応援するつもりでおられるようだ。その輝きはなった笑顔で「がんばれ」などと仰られてしまえば、俺は頷く他はなくなってしまう。

 つくづく殿下もお人よしなお方だ。俺が身を固めることが殿下を喜ばせるのならば考えないでもないが、騎士長となってからと言うもの権威だの地位だのを聞きつけて寄りつく女性が少ないわけでもなく、正直な話かなり滅入っていたのだ。世間体を意識せずにはいらぬと云えども、そのような私利私欲にまみれた婚姻を結ぶという手段を選びたくはない。
 そういう意味で言えばは俺の肩書きを目当てに寄りつく女性たちとは一線を画しているし、器量も良く、明るく朗らかな性格は人好きをするものだとも思う。仮に結婚をしたとしても、殿下に同じ忠誠を誓う身として、俺は護衛という使命に心置きなく当たれるだろうし、互いに条件として不足はないのだろう。
 ……なんて、こんなことを機械的に考えてしまうのはに失礼だ。俺のほうがよっぽど私利私欲にまみれているじゃないかと、心苦しく情けない気分に陥る。俺にはやはり恋人だの結婚だのと言うのは、だいぶ縁遠いことのようだ。









 式典の日取りを決めるのにも占星学を用いている。
 王城の東館にあつらえたの研究室を訪ねれば、彼女はいつも通り背筋をぴんと伸ばして真面目に机に向かっていた。俺が声をかければ途端に筆をおいて、うんと両腕を天へと伸ばす。そのまま振り返った刹那に、一つに束ねている髪が馬の尻尾のように揺れた。


「邪魔をしたか。」
「いいえ、だいじょうぶです。ああ、そうだ、昨夜の占いの結果なんですけれど。」


 ぞんざいな手つきで辺りに散らばっていた紙を探しまわって、ようやく見つけた一枚の星図を俺に見せてよこした。式典に最も良い日を探してもらっていたのだが、月の位置がどうとか金星の位置がどうとかで結局まだ確定をしていないのだ。今日の答えも特段の変わりはなかった。


「なかなか良い答えが出ないんです。今夜も星を見て、占ってみますね。」
「ああ……助かる。だが、無理をするなよ。近頃は夜が冷えるから、風邪を引くぞ。」


 はにっこりと笑って頷いた。――俺にはどうも、が持つ体躯の華奢さがよわよわしくって気がかりなのだ。東洋人特有のほの青く光るような血色や、線の細さがあまりに頼りなくって、無理をすれば祟るのではないかと心配になる。ちょうど昔のアルスラーン殿下がその御心の辛さなどを見せぬよう振る舞っていたときのように、すがたを表さない痛みが身中を巣食っているのではないかと。
 そういえばナルサスにも――――殿下と同じようなことを言われた気がする。いつだったか、俺があまりにもに構うから、なにか特別な感情を抱いているのではないかと揶揄をされたことを思い出した。
 まさか、特別な気など起こしているはずもない。は若く清廉な少女であって、庇護の対象ではあるが、よもや妻に娶ろうなどとはつゆほども……。


「ダリューンさまは相変わらず過保護でいらっしゃいますね。わたしは平気ですってば。」
「……そう言うな。此処へ来たばかりのころ、気候の変化に滅入っていたのはどこの誰だったか。」


 言えば名前はほんのりと頬を染めて恥じ入った。
 ああ、こういう表情の一つひとつを取ってみてもは、やはり清廉で神秘的なうつくしさがあると思う。精霊の声を聞き星を読む占星術のつかい手だからだろうか、はしなやかな動作やとくとくと喋る声のどれをとっても、何か特別な色香を持ち、俺の瞳や耳にいちばんに飛び込んでくるのだ。
 机周りを見れば分かる通り、普段はおおざっぱで細かなことに頓着をしない性格で、ひとたび馬に乗れば振り落とされるほど身のこなしは愚鈍だが、すべてを差し引きしても許して手助けをしてやりたくなるくらいには、俺はのことを気に入っているのだ。……この感情は庇護欲でしかないと思っていたのだが。


「やはり、今夜も星を読みます。殿下を憂慮させてしまってはいけませんから。」
「……いや、それは気にしなくて良いぞ。殿下もの体調を慮ってやることだろう。」
「ダリューンさま、わたしもあなたと同じで、殿下の喜ぶお顔が見たいのですよ。」


 さきの戦で占いをした夜、殿下は星を読むわたしの傍へ来てねぎらってくださったのです。寒くはないか、もうすこし頑張ってくれと、声をかけてくださったのが嬉しくって。あの夜の殿下の勇ましい横顔に、国王たる威厳にわたしは、胸を打たれました。だから決して、失望させたくはないんですよ。ダリューンさまなら、この気持ちをよく分かってくれるでしょう?


 ……は瞳を輝かせてそんなことを語ってくれた。熱のこもった声色からはその想いが見え隠れするようだった。がアルスラーン殿下を想う気持ちが本物であり、国のためを思い尽くしてくれている――、そのことをただ嬉しく思ったのは事実だ。
 それなのに俺は胸の内でなにかが燻り燃えてゆくのを実感した。この気持ちはいったい、何であるのだろうか。が殿下に忠誠以上の――――それこそなにか特別な感情がそこに込められているのでは、と妙な勘繰りをして、心臓に針を刺されるような心地があった。


「……そうだな。よく分かる。ただ無理だけはしてくれるな。おまえが倒れたら殿下も責任を感じて、きっと気に病まれるだろう。」
「はい、分かっています。そんなことになったら、ダリューンさまに怒られてしまいそうですからね。」


 ――もし夜に雨が降ったら、わたしのことだけを心配してくださいね。
 はそれだけの言葉を残して、研究に戻ると言って俺を部屋から追い出した。式典の日取りはまだ決まらないが、急いでいるものではない。それでもは殿下のために、殿下を喜ばせるためだけに身を粉にして働いている。
 この国にとって喜ばしいことに違いない。もちろん、俺にも、……それなのにどういうわけか、素直に意を掬えない俺がいるのだ。









 今にして思えば『もし雨が降ったら』、なんていう言葉を言うこと自体、おかしい話だったのだ。天文や占星術に長けているが天候を予測できないはずもないし、まして昨夜にも今朝にも天空を見ていたのに、夜に雨が降ることを知らずにいたわけがない。
 空に星々がのぼる頃、しばらく経って小雨が降りだした。俺はそれまでの仕事にきりをつけて休もうと思っていたのだが、ふと空を見てのことを思い出したのだ。

 ――もし夜に雨が降ったら、わたしのことだけを心配してくださいね。

 まさかこの雨の中で占いをしているわけではあるまい。それでも嫌な予感がして、仕事を片づけてから俺はがいつも星読みや占いをしている塔の上へと登ってみた。
 ところどころにしか火の灯らない暗い階段には自分の足音以外に、打ちつける雨音しか響かない。それはしだいに強くなって、ざあざあと降りしきるものに変わってきていた。
 もしもこの雨の中――――が占いを続けていたのだとしたら。まさか、と胸の中では否定しながらも、どうしてもそのすがたを想像してしまう。昼間の様子からするに、は一日でも早く殿下のために日取りを決めたいと思っていたようだし、無理をしないと約束したことを信じていないわけではないが、は自分のことにすこし無頓着で楽観的なところがあるのだ――――万が一ということもありうる。

 ようやくたどり着いた塔の最上階を見上げれば、うすぼんやりした明かりが差しこんでいる。外へと通じる扉の前にひとつの影が見える。小さなあの背中は、間違いなくのものだ。俺は階段を駆け上りながら、一心にの名を呼んでいた。
 振り返ったその前髪や頬からしとしとと滴る雨水。青白く浮かび上がる頬や、寒さに震えるくちびるを見て心臓をひやりとさせられる。はすこし面喰ったような顔をしていたが、すぐに嬉しそうな笑顔に変わった。顔に張りついた髪をかきなでて俺の名を呼ぶ、その細く冷えた腕をつかんで引きよせる。


「なにしてるんだ! この雨の中……!」
「ダリューンさま……、来てくれたんですか。」
「まさかと思って来てみれば、おまえは……。あまり心配をかけるな。」


 触れた腕は冷えていて、早く湯浴みをしろと急かせば「はい」と素直に返事をした。
 ……俺は怒っているというのに、はニコニコと、嬉しさを隠しきれないといった様子で笑っている。なぜそんなに笑う。よく分からない。が此処へ来てから数か月、俺は何度も手をこまねいて、それを咎めて怒るたびには両肩をすくませて、泣きそうな顔をして反省してきたというのにだ。
 俺がいぶかしんで振り返ったのを、はぎくりとして目を合わせた。なにを思い、なにを考えているのか、まったく読み解くことができずにいる。


「あの……。ごめんなさい。わたし、ダリューンさまが来てくれたのが嬉しくて。」
「……どういうことだ。」
「だから……、その。」


 言いにくそうに、は俺の手を引いて呼び止めた。雨音が鳴りやまぬ石塔で、このようにうすら暗く底冷えのするようなところに長居をさせたくはない。そう思って覗きこめば――――はわずかに頬を染めて、俺の瞳をじっと見据えたのだ。


「ダリューンさまの気を引きたかったんです。」


 ごめんなさい――と、はそう呟くなり途端に俯いてしまった。呆気にとられてなにも言えずにいた俺をせっついて、「はやく戻りましょう」と足早に階段を駆け下りてゆく。その小さな背から、濡れた髪を揺らして走る愛らしいうしろ姿から俺は、目が離せずに――――腑抜けのようになって後を追った。

 恋人だの結婚だの、そんなものは俺には縁遠いものだとばかり思っていたが、気づいてしまえば一瞬で歯車は回っていくのだ。不肖の自分を情けなく思いこそすれ、すべてが殿下の思し召しであったのだと思えば感慨深くもある。しかしこれから、どうしたものか。蓋を開けば胸に溢れだす感情たちにどんな名がついているのか、俺は一つひとつ確かめねばならぬようだ。




(150906) 恋とはどんなものかしら



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