夏の警鐘が鳴り止まない





 じりじりと照りつける真夏の太陽の下で、青空に飛沫をあげる自分の血潮を眺めていた。痛みも衝撃もないまま張り裂けた皮膚から、赤くたぎる血液が吹き出して目の前の男を真っ赤に染める。地面に崩れ落ちたわたしを見下ろす爛々とした瞳はまちがいなく吸血鬼のそれだ。銀色のうつくしい髪を赤い血で濡らし、わたしの皮膚を割いた爪先をぺろりと舐め上げて至極しあわせそうに笑っていた。ああ美味しい、きみの血はこんなにも、僕を満たしてくれる。黙って家畜になっていれば良かったのに、――そんな言葉をさいごにわたしの記憶は途切れている。



 4年前の荻窪での会戦は大敗に終わった。砂見二班、旗岡三班の全滅のみならず、わたしが所属していた三宮一班の半分が死亡、半分が重傷という壊滅的な結果を記録した。目が覚めたとき、同じ三宮班で数か月ものあいだ寝食を共にしてきた仲間はわたしを含めて2人しか残っておらず、わたしが昏睡しているあいだに彼らの弔いさえも終わっていたのだ。
 殲滅された戦場で死体に紛れ意識を失っていたわたしは、身体に残された吸血鬼の繊維サンプルを検出するために医療班に運び出され一命を取り留めることができた。すこしでも科学研究や医療技術を進めるために、吸血鬼の体に触れられた傷跡を差し出してDNAの検出に協力をする必要があったのだ。人体実験でもモルモットでもなんでも、自分を救い出し生かしてくれた軍の御為に、自分のすべてを差し出さなければならない。それこそが戦場で死ねず生きて戻ってしまったわたしに課せられた業だった。
 鏡を見て、着替えをして、風呂に入って胸の傷が目に飛び込んでくるたびにわたしは自分の命運のことを考える。首や鎖骨を真横に引き裂いた爪跡は、あと数ミリずれていたら大動脈を傷つけて即死していただろう。生き長らえているのは間違いなく奇跡だ。仲間と共に死にたいと願っても目が醒めてしまった、命があると思えば途端にすべてが惜しくなった。

 わたしは生きて戦いたいと、望んでいる。自分の生命と命運をもう一度軍に預けて、自分のすべてをかけて吸血鬼を討ち取りたい。きっとその為に此処へ戻ってきたのだ。







 ――4月の年度初めに行われる集会で久しぶりに一ノ瀬グレン中佐のすがたを見た。入隊の時期を同じくする同期生とは言え、彼はその御家柄からキャリア街道に乗り、すぐに飛び級をして軍上層部の会議に通いづめになってしまった。かたや平隊士のわたしは彼と同じ班に所属したことは今まで一度も無い。それでも彼はあの性格だから、わたしのような同期の平隊士でも気安く話せるほどの距離感を築いているのだ。
 入隊から数年の時を経てわたしたちはいつの間にか24歳になっていた。ひとたび戦場に出ればキャリアだとか家柄だとか、そういうのが一切意味を成さないとだいぶ分かった頃合いだと思う。それなりに経験を積んだ今、わたしは自分の隊を持ち、立場は違えどグレン中佐と並び立てるような地位に就いている。
 開式の前に部下を一列に並べ、その先頭に立つ。後手を組んでじっと待っていると、どこかからフラリと現れたグレン中佐はダルそうに後ろ頭を掻き、きょろきょろと辺りを見回していた。あいかわらずどこか抜けている風で、底の知れない雰囲気を感じさせる。


「あれ、俺の列どこだっけ? ここ?」
「……グレン中佐の列はここです。わたしの右隣。」
「あーそっか、どうも。って誰かと思ったら、じゃねーか。久しぶり。」


 部下がうしろに並んでいる状況下で、気安く頭を小突いたりしないでほしい。ちゃんと会話をするのも久しぶりだと言うのに、グレン中佐は昔と変わらずわたしのことをからかって来るのだから困ってしまう。そういえば出会った頃からグレン中佐は他人との距離間がだいぶ適当で、隣に並ぶたびにわたしの肩に自分のひじを置いて――――高さがちょうどいい、なんて軽口を叩いていたことを思い出す。


「おまえ、次も出るのか? 名古屋の出撃。」
「もちろん。今はわたしも隊長なので。」
「はは。そっか。そういや、おまえは『貴族に殺されなかった人間』だもんな。」


 グレン中佐が揶揄しているのは、4年前の荻窪会戦で第七位始祖フェリド・バートリーと交戦したときのことだ。リハビリを終えてようやく一人前に動けるようになったわたしの病室に、彼はわざわざ会いに来て、わたしが生きていることを確認して「すげーなあ」と感嘆していたのだ。
 おそらくグレン中佐とフェリド・バートリーとのあいだにはなにか因縁のようなものがある。グレン中佐の研究や戦場での様子を見るかぎり、わたしが抱くそれにも引けを取らないほど、並々ならぬ執着心や憎悪を抱いているように思う。フェリド・バートリーの実力を認めているからこそ、自分の手でかならず殺すと息巻いて――――だからこそ彼に手をかけられて尚、生き残ったわたしのことを「すごい」と称賛したのだ。
 わたしはただ殺されあぐねて、生き延びてしまっただけだと言うのに、グレン中佐はそれでじゅうぶんだと言った。彼は独自の生命観と闘いの理論を持っているように思う。それが美徳か甘さかはこの際どちらでもよい。


「おまえは絶対、すげーツキを持ってるよ。間違いない。今回も期待してるぜ。」
「……心配しなくても生きて帰ってくるわよ。4年前のようにはならない。」
「もしフェリドに会ったらおまえはどうする。」


 仲間たちを皆殺しにした仇を討ちに行くのか。――暗にそんなことを匂わせてグレン中佐は口角を持ち上げた。わたしにどんな答えを期待しているのか、あるいは、軍隊長としてどんな風に答えるのが正解なのかもよく分からない。ただ一つ胸に誓っているのは、戦場において後悔する判断をしないということだけだ。


「その瞬間で最善の選択をするだけよ。」


 わたしの受け答えは彼の満足の行くものだったろうか。グレン中佐は喉を鳴らして笑い、「そうだな」と、それが当たり前の答えだよと面白そうに笑った。
 彼はつまらなかったのかもしれない。わたしが軍規にがんじがらめの退屈な軍人になってしまったと、昔のわたしと照らし合わせて笑っているのかもしれないと、そんなことを思った。







 出立は初夏の日差しのまぶしい5月の始め、軍の車を走らせて名古屋へと向かう。ひび割れたコンクリートの道を走りながら、旧高速道路の降り口に差し掛かったインターの辺りで爆発音が響いた。
 赤い火花が青空で音もなく散る。敵襲の合図だ。吸血鬼が3体、ランクは低い。わたしたちは車を止め、戦闘準備を整えて高速を降りた国道のほうに向かって走る。
 吸血鬼討伐はスピード・連携・急所攻撃のどれを失敗しても上手くいかない。号令を合図に陣形を組み、それぞれが全力を尽くして目の前の化け物を狩る。いち、に、さんとカウントを取るあいだに近距離型が間合いを詰め、中距離型が術を唱え、遠距離型が罠を張る。わたしの班のはずっとこのパターンで勝利を収めていた。
 隊長として約1年、部下たちと毎日訓練と演習を重ねようやく物にしたのだ。簡単に崩される気はしない。いつものように号令をかけ、いち、に、とカウントアップをしてゆく、わたしの両足を地面に縫い止めたのは――――、目の前のビルの屋上に銀髪を揺らして立つ、その男の存在を視認したからだ。


「あらら、雑魚がいっぱい。皆さん、さっさと殺しちゃってくださいね〜。どっかでとある貴族様が粉々になっちゃったらしいから、急いで向かわないと。」


 それは他でもない、第七位始祖フェリド・バートリーだった。
 赤く爛々とした瞳、銀になびく髪、人を喰うようなニヤニヤとした笑み、――見るほどに4年前の憎悪が胸に湧き上がってくる。間違いない、あの日と同じように気まぐれに現れて、戦場を掻き回してゆく吸血鬼の貴族だ。
 自分を戒めていたはずの冷静さなんかとっくに消え去っていて、身体中の血肉が沸騰しているように胸の中が熱く、燃えているような感覚に落ち入った。あいつを殺す。殺す、絶対に、殺す。わたしの仲間を皆殺しにした憎き吸血鬼を討たなければ。たとえ自分が鬼になったとしても、戦場で後悔だけは残したくない。


「総員、撤退!」


 わたしの号令を合図に陣は崩れ、全員がばらばらに後ろに散ってゆく。退散を命じられて逃げてゆけば、吸血鬼たちは興を削がれたからとほとんど追って来ないのを知っている。つくづく遊び半分に手をかけられているようで腹が立ってしまう。
 ――――ひとり戦場の真ん中に立ち尽くすわたしを、後ろから呼ぶ声がしていた。隊長、隊長、はやく。生命の危機を分かってはいても、目の前に見据えている銀髪の男を逃すことは、できないのだ。
 これは後悔のない判断だと胸を張って言える。


「あはぁ、ひとり、死にたがりがいるみたいですねえ。」


 目が合えば、一瞬で地上に下りてきたフェリドに間合いを詰められ、数十メートルほどの距離を保って向かいあった。
 毅然とした態度でがれきの上を歩き、ゆっくりと此方に向かってくる。武器やなにかを構えている様子はない。あの手ひとつでわたしを殺してしまえる、それが吸血鬼の貴族、始祖の血を引いているフェリドという男なのだ。


「おまえを殺しに来た。」
「そう。それは、」


 残念だなあ。
 ひと呼吸おいた瞬間に目の前に伸びてきた手が、わたしの頚を掴み上げた。強い力で首を掴まれ、気道が狭まったその一瞬、目の前が真っ白になる。あとすこし力を込められれば首ごと粉々に砕け散る、そういう恐れを断ち切るように奥歯を噛みしめて、わたしはフェリドをきつく睨みつける。
 その視線にフェリドは「こわ〜い」とふざけて、わたしの顔を覗き見た――その刹那、なにかに気づいたように手の力を緩めた。咳き込んだわたしの胸倉を引っつかみ、ぶちぶちと繊維を千切って隊服をはぎ取る。何十にも着こんでいたのに白日にさらされた素肌には、4年前フェリドに刻みつけられた傷跡が鮮明に残っていた。
 わたしのそれを見下ろして、フェリドは声を上げて笑う。軍服の切れ端をあたりに放って、塵を払うように両手を叩いて。


「おかしいなあ、きみのことは前に殺したはず。その顔、よく覚えてますよ。気が狂ったみたいに僕に向かってきた女の子。若くて青臭くって、どっかの誰かクンそっくりで……あんまり可愛いから、血も飲まないで殺しちゃった。……そのはず、なんですけどねえ。」


 ――――傷が浅かったのかな?
 人間ひとりぶんの生命なんか何の価値もないと、そう言われている心地がした。この男の手で何人の仲間が死んでいったのだろう。その死で何人の仲間が悲しみ、苦しんだのだろう。わたしのように。
 激情に飲みこまれて消えて無くなってしまいそうだった。わたしは無意識に涙を流して、拳を握りしめていた。唇を噛んでフェリドに立ち向かう。まったく隙だらけで、どこからでも殺してしまえそうに見えるのに、呆れるほど隙がない。武器を持って突っ込めばその瞬間に死ぬのだろうと思った。背筋をかけるのは恐怖から来る鳥肌か、過去への懺悔から来る憎悪か、もう判別がつかない。


「ひと思いに殺されずに、さぞ苦しい思いをしたことでしょうね。生きているほうが辛いことって、ありますからねえ。」


 中距離型の『夜叉』シリーズ、傑作と呼ばれた一振りをかまえる。目の前に見据える男はあいかわらずニヤニヤときみの悪い笑みを浮かべて、真剣さのかけらもない視線をよこしてくる。
 決して油断をしていたわけじゃない。憎悪と憤怒で湧き上がっている胸の内は、おそろしいほど冷静さを取り戻していた。それでも瞬きの合間にフェリドは、わたしとの距離を数センチまで詰めて、その手でわたしの頚をもう一度つかまえたのだ。
 息を呑む。これで最後か、と思えば心臓の鼓動がやけに大きく聞こえてくる。仇を討とうとして、討てなかった、ただそれだけのことなのだ。後悔はない。そのはずなのに、身体中が震えて、すこしも動けなかった。


「ああ、そうそう、思い出しましたよ。僕はきみの血を飲んでいたんでしたね。たしかすっごく美味しくて、驚いたんです。噴き出す血潮を見て、ああうつくしい、女の子の血は、こんなにも美味しい……と感動をした。」


 ――――今度はきみに思い出させてあげる番だよ。
 言うなりフェリドは白くなめらかな手指で、わたしの胸元を掻き切った。傷跡のあった場所をそのまま抉り取るように爪で引っ掻いて、鮮血が飛沫を上げるのを、しあわせそうな顔して見つめていた。
 息も出来ないほどの痛みと、衝撃を一心に受け、意識が飛びそうになる。うつくしいまでの傷の痛みはあとから襲ってくるのだ。血だまりの中に不格好に崩れ落ち、必死に酸素を吸いこんで、悔しさに握りしめた武器をわたしの手ごとフェリドは踏みつけた。


「このまま殺してくれる……なんて思いました? ざーんねん。」


 きみくらい一瞬で殺せるんですけどねえ。だけど4年前のきみは殺されてはくれなかった。これは生きて苦しみを味わえって言う天啓じゃないかな。きみたち人間の罪を贖って、一生苦しみ続けろってことなんですよ。きっと、ね。


 …………地面に倒れこんだわたしの顔を覗きこみ、睫毛や前髪にまで飛び散った血を、フェリドの白い手袋が撫でる。ぞっとするほど優しい手つきに身震いする。薄れてゆく意識の中で、フェリドは愉悦の笑みを浮かべている、その背にある透きとおるほどの青空が脳裏に焼き付いて離れなかった。
 4年前のあの日とまったく同じ初夏の太陽が、血まみれのわたしをじりじりと照らしていた。ああ美味しい、やっぱりきみの血はこんなにも、僕を満たしてくれる。黙って家畜になっていれば良かったのに、――囁くようなフェリドのその言葉をさいごに、わたしの記憶は途切れている。




(150903) 鬼ごっこは続いている



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