愛の綴りを教えて





 銀色をした髪なんていうのは、物語やテレビアニメの中でしか見たことがなかった、その絹のような手触りを指先にからめて遊んでいるじぶんが此処にいることを、わたしはいつから想像していただろう。満足して生きてゆくのに申し分ない世界がある。このシルクに身を溺れさせて息をするだけで、たまに自分の身体を空っぽになるまで明け渡す、ただそれだけでわたしは充足を得て生きてゆける気がしていた。
 この世界には学校が無い。足かせのようなルールが無い。その代わりに人間に当てはまる権利や自由もなにも無い。生命をおびやかされないかわりに、歩き回るための脚を切り落とされる。そういう世界にわたしはやってきて、恋しく思っていたすべてを諦めたらどこへもゆけない自分だけが残ってしまった。
 銀の糸を小指に巻きつける、まるで運命の赤色とはすこしも似ていないけれど。そもそもこの世界には恋とか愛とか、運命とか永遠とか、そういうロマンチックに酔いしれた概念が抜け落ちている。


「……もう目が覚めたの? まだ眠っていてもいいのに。」


 多くの言葉は必要とされていないから、わたしはただ頷く。うつくしい銀髪を持つ彼、フェリドは吸血鬼で、この世界では人間よりも位が高い生き物だ。ピラミッドがあるとすれば構成するのはふたつだけ。吸血鬼か、人間か主か隷か。
 爪の伸びた手指に髪を撫でられ、頬に触れられて、ただ身をやつしていればフェリドは満足そうな顔をするのだ。その手に触れられているのは気持ちが良かった。なにも制約のない海に落ちて、さびしい波にたゆたっているような生ぬるい心地よさ。
 此処では、孤独であること、それだけが唯一の不幸だった。シンプルで複雑な価値観だ。だからどこにもゆけないように錨を下ろす。わたしを一人きりにしないでと、まじないをかけるように強く念じている。


「僕は仕事に行かなくちゃ。始祖会の貴族たちがうるさくてね。お土産を用意してあげるから、いい子で待っていて。」


 シーツのしわを伸ばす手のひらを捕まえて、自分の頬に押し当てる。フェリドの冷たい手はわたしの肌を撫でることを好んでいた。せめてもの甘えを無碍にしないでと恨みがましく見上げては、彼の瞳が嬉しそうにゆがむのを見て胸の奥を熱くさせた。
 本当は置いてゆかないでほしい。右も左も分からなかったあの頃のわたしを、思い出して、ここに居てほしい。始めてこの世界に来た日、わたしはこの世界が与える自分の価値をすべてフェリドに売り渡した。きっともう戻ることはできない。ならば目の前にある欲望にすべてをゆだねようと思ったのだ。
 どうせ死ぬのならば幸福に死にたい、一瞬でも与えられる優しさにすがりたい。どうせこの身体は海に沈むのを待つだけの隷属しか知らないから。


「そんな風に甘えられると、連れて行きたくなっちゃうなあ。けれど他の子にきみを奪われたくないから、連れて行かないよ。」


 だって変な匂いがするんだもの、きみは、この世界の子どもじゃない、特別な匂いがしている。
 フェリドはわたしをかき抱いてめいっぱいに息を吸い込んだ。ブーケの花々の香りをかぐみたいに、甘いため息をこぼして、冷えたわたしの身体を抱き寄せる。かき集めても温度は足りないのに、触れているだけで無性に安心する。


「まだ匂いが消えないね。」


 この腕にどれほど抱かれてもわたしの匂いが上書きされることはない。違う世界線からやって来たことを、どうしたって突きつけられては鎖につながれるようだった。
 いつだって言葉を飲み込むわたしは本当はもっとよく笑う子どもだった。なんでもできる、なににだってなれる、当たり前の自由を享受していた。あの日、脱ぎ捨てた窮屈な制服は今どこにあるのだろう。履いていた靴は。背負っていた鞄は。もしも扉を開けたときに、あの自分の部屋にたどりついたなら、わたしはなにを着て、なにをめがけて、どうやって自由を味わえば良いのだろう。
 この銀色の手触りや、陶磁器のようなうす青いなめらかな体温を求めたあの夜にぜんぶを失ってしまった気がする。さもしい波のようだ。暗やみの海をなぞる灯りに、ただ一つ取り残された筏とおなじ。


「行かないで。」


 陸に戻れないのならせめて自分を満たしていたかった。フェリドのこの手を離したら、行き先を知らない海に投げ出されて震えてしまう。わたしはまた一人きりでさびしい思いをすることになる。
 この身体にまとっているのはわたしに眠るすべての欲望ただそれだけだ。なににもおびやかされない不自由のことをわたしは愛していた。なによりも、どんなことよりも、きっと自分自身の価値よりも。


「きみの身体はどんどん成長をして行くね。だけどもうすぐ、止めてあげるから、あとすこしだけ待っていて。」


 朝だとか夜だとか、そういうくだらないことは気にしなくっていいんだよ。目が覚めたらおなかが空いている。満腹になったら遊びが欲しくなる。満足したら眠くなる。ぼくらに必要なのはそうやって生きてゆくすべての退屈をしのぐことだけなのだ。


 ――――わたしの名前は、なんだっけ。年齢はいくつだっけ。誕生日はいつだっけ。通っていた学校はどこだっけ。友だちの名前はなんだっけ。すこしずつ忘れていく。すこしずつ、違うわたしが生まれていく。身のうちから這い出るおんなとしての欲望が、ただ目の前のおとこを食らいつくしてゆく。
 さびしさを奪う篝火のような、くすぶりだけが真実だ。




(151122) 世界はひとつになる



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