羽化したての彗星





 どんな世界を見ているのか、と聞かれるたびに俺は辟易した気持ちになって、心の中ではつい愛想の悪い答えを返してしまうのだ。どんなも何も同じ世界だよ、ただすこし、高い位置から見ているだけ。そういう素直な言葉が飛び出しそうになるのを、ぎりぎりのところで歯止めをきかせている。世界なんかどこから見たって同じなのだ。大事なのはそれをどういう風に見ているかということだけで、たぶん俺には世界がどう見えているかなんてことも、きっと俺にしか分からない感覚なのだろうから。

 本気でやり始めるといろいろな壁にぶつかるからスポーツはおもしろい。身長のおかげでだいたいのことは苦労せず出来るけれど、細かなエッジを効かせた技だとかステップだとか、感覚だけじゃどうしようもない部分に課題が見つかる。俺は初めバレーボールがドへたくそだった。夏が来てようやく様になっては来たけれど、先輩たちにはぼろぼろに言われるし、未だに初心者扱いだし、力でごまかしているテクニック面ではまだ自慢できるような状態じゃないのもよく分かっている。
 バレーをやっている時だけは、仲間と世界を共有できる気がしている。背が低くても高くても、見ている世界は同じで、どういう風に見ているかも、なにを見たいと思っているかもきっと同じで。難しいことはよく分からないけれど、同じ世界を見ていたいから、俺はバレーをやっている。きっと、そうだ。


 体育館を飛び出した拍子にもつれた足が絡んで、そのまま渡り廊下に転がって身体を投げ出した。通路は太陽に生ぬるく温められている。仰向けに寝転んで、やっとのことで呼吸を整える。
 キツい練習に耐えかねた身体が酸素と水分を求めて飢えるような、この極限状態を味わうのは辛いようでいて快感でもある。積み重ねた努力のぶんだけ辛さに馴れて、身体が動けるようになっていくのが、手に取るように分かるから。その感触が俺は好きなのだ。
 今日の練習はひときわハードで、体育館の中でも1年生の何人かがぶっ倒れている。もやがかかったように見えるのは、酸素が足りなくて視界が狭まっているせいだ。呼吸を落ち着けて、最後に深く深く吸い込んで、はあっと吐き出す。水が欲しい。ぱちりと目を開けたときに、上から俺を覗き込んでくる顔が見えた。
 女の子だ。


「生きてる?」


 生きてる、と反射的に答える。身体を起こして、よく見るとずいぶんと小さな女の子が俺をじいっと見ていた。制服のスカートと焦げ茶色の髪がさらさらと風に揺れている。背が低い、一年生の女子かもしれない。
 尻餅をついて立てた膝に腕を乗っけて、ふうと深呼吸をひとつ。汗が流れ落ちてくるのを手の甲で拭って、呼吸を整えているとそのうちに膝上のスカートが目の前ではためいて、ついつい視線を持って行かれそうになった。
 上を向いていないと、変態って言われそうだ。俺はTシャツの襟をつかんで、風を仰ぐついでに首をぐいっと上向けた。


「すごい背、高いね。」
「うん。194センチあるよ。」
「すごい。わたし、150センチ。」


 44センチも違うんだね。……可愛い女の子に好奇心いっぱいの瞳で見つめられてしまっては、男としてしっかり期待に応えねばなるまい。妙にサービス精神が沸いてしまった現金な俺は、おもむろに立ち上がって彼女の真ん前で気をつけの姿勢を取ってみる。
 さっきまで近くにあった彼女の小さな顔がずっと下のほうにある。猫みたいに真ん丸の瞳が俺を見上げて、文字の通り目を丸くしていた。頭のかたちも真ん丸だ。顔も手も何もかもちいさい。わかんないけど、なんかの妖精みたい。
 笑うとくしゃっとなって目尻が垂れるのが可愛かった。右手をめいっぱいに掲げても、俺の顔に届かないって、ニコニコ笑っているその手をつかまえたくなって、汗をかいていることを思い出して、寸前で思いとどまる。


「バレー部なんだ。」
「そうだよ。まだ始めたばっかりだけど。」
「1年生?」
「うん。3組、灰羽リエーフ。バレー部の次期エースだよ。」


 彼女は俺の言葉を冗談だと思ったのか、ぷっと笑って、だけどすぐに「リエーフ」と俺の名を呼んで、もう覚えたと嬉しそうに口角を持ちあげた。
 その顔は俺から見るとあまりに遠いところにあるから、背中をかがめて覗き込んで、彼女が思いっきり上を向いてようやく、会話のしやすい距離になる。44センチの差は大きいけど、すぐに埋まるものだ。腰は痛くなるけど、たぶん彼女の首もつまさきも、痛くなっているだろうから、おあいこ。


「わたし。5組。」
。部活は?」
「やってないよ。今は、美化委員の仕事中。」


 そういえば体育館の渡り廊下にはドアがあって、そこが裏庭への近道になっている。美化委員は裏庭や校門脇に花を植えたり、雑草を取ったり、ごみ拾いをしたりしているらしい。
 裏庭を見やるのに姿勢を正せば、すぐにとの距離が遠くなる。激しい練習の直後でからだがバキバキ言っているのを、手足を伸ばして直せば、は「わあ」と感嘆をもらして俺を見上げた。


「リエーフ、腕も脚も長いね。」
「うん。は小さいから、余計にそう見えるのかもね。」
「ふふ、そうかも。」


 あ、小さいって言うのは、失礼だったかな。
 またなにも考えずにしゃべってしまっていた。こういうのを研磨さんに気をつけろって言われているのに、は雰囲気が優しいから油断して、意識するのをすっかり忘れていた。慌てて口をつぐんで、の様子を見てみるけれど、は特になにも気にしている風ではなかった。ただ俺につられるようにうんと背伸びをして、眠気を飛ばすようにうなっている。
 ……これがの背伸びか。ちっちゃくて、かわいいな。なんだろう、この気持ち。胸の奥がしゅうと焦げていくみたいだ。


「……しゃがんだらちょうどいいかも。」
「あっ、そうだね。話しやすくなるかな。」


 俺はドキドキし始めたのを誤魔化すようにして、両膝をおりまげて、その上に肘を乗せてしゃがむ。今度は俺のほうがよりも小さくなる。顔の距離がずいぶんと近くなって、はニコニコ笑いながら俺を見下ろしている。はすこし嬉しそうだ。


「どう、これがわたしの見ている世界。」


 ……その言葉に、面食らって固まる。これがの見ている世界。地面との距離がいつもより近くって、空との距離がいつもより遠い。ただそれだけだ。別にいつも俺が見ている世界と、大きく違うわけじゃない。同じ色、同じ景色。
 俺が言葉に詰まって、曖昧な返事をすると、はやっぱり優しく笑って、小さな顔をかしげて俺の顔を覗き込んだ。


「あんまり変わらないでしょ。」
「……え。」
「ただ、わたしはリエーフの世界、簡単には見られないんだよね。」


 だけどきっと同じだから、別にいいの。
 の言葉は、ただの強がりのようにも思えた。きっと身長のことでからかわれて、その度にあしらい方が上手くなって、色んなことに慣れてしまったのだ。と俺はぜんぜん違うけどきっと同じだ。同じ色した同じ世界を、同じように見ている。
 俺の世界を見るのなんて簡単だよ、と言ってのことを抱き上げてしまおうかと思ったけれど、やっぱり、女の子相手にそういうことをすると、変態だと怒られてしまいそうだから止めておいた。猫にするのと同じように、は簡単に抱きかかえることができそうだ。顔も手も足もちいさい、妖精みたいなは、きっとあまりに軽くて俺はおどろくのだろう。
 抱き上げればは、いつも同じ世界を見ているくせに、急に視界が高くなって慌てて、「すごい」って言うはずだ。そうやって想像をすれば、びっくりしたの様子を見てみたくなってしまう。はどんな顔をするだろう、どんな風に笑うだろう。俺の見ている世界を、どう感じるだろう。あんまり変わらなかった、つまらないと言って笑うんだろうか。


「見れるよ、俺の世界。」


 俺はもっとのことが知りたくなってしまった。わき上がる衝動のままに、抱き上げても良いかと聞こうとしたその瞬間――――背中にものすごい衝撃と激痛が走った。痛ってえ! なに!? 視界の隅っこではバレーボールが跳ね返って行く。あ、いま俺、ボールぶつけられたのか、と瞬間的に察したのと同時に、5分間の休憩時間がだいぶオーバーしていることに気がついた。
 やばい、怒られる。いや、現在進行形で、怒られているのだ、これは。背中を打たれた痛みに咽せながら振り返れば、俺の背後では黒尾さんと夜久さんが、おそろしい笑顔で仁王立ちしていた。ああ、こっわい。


「おいリエーフ、おまえなに堂々とサボっちゃってんの。」
「休憩のあとレシーブ練習だって言ったよね。俺の指導をすっぽかすなんて良い度胸してるね。」
「あっ、誤解です。黒尾さん、夜久さん、ちょっと待ってください。ごめんなさい! 待って! 待って!!」


 ぶたないで! ――と身構えた俺を通り過ぎて、ふたりはの前で立ち止まった。そうだ、急に男バレの3年生が出てきて、ものすごい勢いでボールが飛んできて、がびっくりしているかも。今知り合ったばかりだけど、俺は先輩たちからをかばわなくちゃいけない気がして――との間に割って入ろうとして、はたと踏みとどまる。
 は黒尾さんと夜久さんと仲が良さそうな雰囲気で、なんだか楽しそうに話をしている。あれ? ということは、えっと、つまり……どういうことだろう。
 状況が飲み込めずに呆然としていると、夜久さんが眉を寄せて、怒っているときの顔をして俺に振り返った。ぎくりとして、曲がっていた背筋がぴんと伸びてゆく。


「リエーフ、おまえさっきさんにため口きいてただろ。」
「うちのクラスのちゃんにため口とは、どうやら死にてーらしいなあ。」


 ――――『うちのクラスのちゃん』?
 予想外のその言葉に俺は口を開けたまましばらく固まる。え、、黒尾さんたちと、同じクラス? てことは3年生? さっき、5組って言ってたけど、いや、たしかに、1年生とは聞かなかったけど、でも。


「ごめんね、リエーフ。わたし3年5組。」
「……!! う、うそだ……!!」


 そんな、まさか。こんなに小さくて、妖精みたいにかわいいのに、年上だなんて!
 俺は膝をついて崩れ落ちる。てっきり1年生だと思って、同い年だと思ってずっと接していたのに。背が低いし、雰囲気からしてそうだろうなって、俺はなにも考えずに見た目で判断して……ああ、俺の馬鹿。またやってしまった。
 土下座をして謝る俺の頭を、はぽんぽんと撫でて、だいじょうぶだと言ってくれた。その優しさについ甘えたくなって、顔を上げての目を見つめると、――その背後から鬼の形相が見えて一瞬で血の気が引いてゆく。


「はい、死刑。」
「メニュー3倍で行こう。」
「ちょ、ちょっと待ってください! ごめんなさいってば〜〜!!」


 黒尾さんにTシャツを引っ張られながら、俺はずるずると体育館まで引き戻される。は俺たちのやりとりを見て笑いながら、「またね」と小さな腕をめいっぱいに振って見送ってくれた。遠くから見るとはますます小さくて、妖精みたいで、引き離されるのがひどく名残惜しく感じてしまう。やっぱりどう見ても、3年生には見えないのに、そう聞いた途端におとなっぽく感じてくるから不思議だった。

 は本当に俺と同じ世界を見ているのかな。なんだか違うような気がしてきた。さっき、の隣にしゃがんだとき、あのとき見えた世界は本当にいつもと同じだっただろうか。忘れてしまったから、確かめに行かなくちゃいけないと、逸る気持ちを押さえれば心臓が燃えるように熱くなった。

 俺が見ている世界では、きみはちいさなちいさな妖精さんです。きみの周りには優しい時間が流れているから、いつもと同じはずの地面と空が、本当にそうだったのか忘れてしまうくらいに、俺はきみばかりを見ていたみたいです。
 ――俺がどんな世界で生きているのか、に教えてあげたい。きっと見せるのは簡単だ。ただどういう風に見えているのか、どんな色がついていてどんな景色が広がっているのか、そういう違いを確かめて見たくなった。俺とが見ている世界は、きっと同じ色で同じ景色で、なにもかもが違うんだろうなあ。そう思えばまた胸の奥がしゅうと焦げるように痛くなって、俺はどうしようもなくに会いに行きたくなってしまうのだ。




(151103) とりあえずもう一度会いに行こう
 


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